昭和58年12月01日 月次祭
信は力なりと言われております。信心をさせて頂いて神様を信じて疑わない、神様のお働きそのものを信じて疑わない。それがいよいよ深く広くすっきりと信ぜれるようになる、と言う事が信心の成長だと思います。信は力であります。その信は力その力が着いてまいります時に、神様からまた信じられる氏子として、お取立て頂く事が出来る事が出来ると思います。神様を信じ神様から信じられる。
始めてそこからあいよかけよ、本当な意味においてのあいよかけよが開けて来ると思うですね。その信ずる力はどういう時に頂けるのか、私しは何時も思うのですけども、折角信心の稽古をさして頂いておって、いよいよと言う時には神様に頼らずに、人に頼る、ものに頼る、金に頼る、金の杖に着けば曲る、木や竹は折れる、神を杖につけば楽じゃと言うに。その楽な道を体得させて下さろうとする神様のお働きを、お働きとして頂きとめると言う事。
先だってからビリグイの末永先生からちょうど、二か月間こちらに滞在、もう一時の暇も無い様に、あちらこちらからの招待を受けたり、又は共励会があるといやぁもうどこまでも率先して合楽の信心を。もう一つ頂き直してという意気込みでしょう。本当に神様のお働きを受けると言う事は、1にも神様2にも神様であると同時に、いよいよの時に神様を外さんで済むだけのいうなら、修行と言うか稽古が必要だと思います。
先生がお話をするとき必ず、皆さんもお聞きになったと思いますけれども。本当にあちらに布教に出て、親先生が言うておられたことが嘘ではなかった。一分一厘間違いのあることではなかた。とまぁいうほどしにおかげを段々頂いております。と言う事は私しは、親先生を信じて疑わないと言う事だと思います。親先生あげん言い御座ったばってん、おかげ頂ききらじゃった。その時だけしか信じてないだものね。
信じてそれを頂いて自分の血肉にしていく事が信心、親先生が言われたことが右左になるというなら。あんたが親先生が言う事を右左にしよるからたい。と私しは思います。ところが簡単に言えばそれだけですけれども。いろいろな場合、ここでは薬に頼った方が、ここでは医者に頼った方が、ここでは人に頼った方が、ままに頼った方がと言う時がございますよね。そういう事が信ずることが出来ないで、形の上にだけになりますと、無茶苦茶になります。
合楽便りにくちゃ無茶らがございますね。いわゆる無茶苦茶の方が先なんです。それは信心の薄い者やない者は、いやぁ無茶な事をされるなぁ信心する人はと、言うたり思うたりする事があるかも知れません。けれどもそこのところの苦しいちゃいうなら苦しい修行、いよいよの時にいうなら、あの人に頼むこの人に頼むではなくて、もう神様一途一心にお縋りしておかげを頂いて、段々確信を積んで行った人の言うならば、いかにも無茶にも見えるですけど、それは無茶ではない。
神様を信ずるが上に、いわゆる確信であります。だからそういう神様を信ずる力を頂くチャンスが何時ぅもあるのですけれど、それをそのたんベンに流してしまう。惜しい事いわゆる木や竹は折れたり曲ったりするのだけれどもそれに縋ろうとする、何時まで経っても信の力というものは生まれません。今日こちらに出て来る2、30分前に常行先生がやって来ました。2、3日直子がお腹が痛むと言うて苦しんでおります。今日参りましてからもう痛い痛いちゅうて泣きます。
ならお母さんに行ってもらおうちゅって。家内にお前ちょいと見てやってくれ。行きましたら暫くしたらまた帰って参りました。どげのふっじゃったかの、おかげでおりあいましたちゅう。いわゆる信ずる力が違う。お母さんが行っただけで折り合う。力と言うものは本当に尊い事である。合楽で妊産婦の方達がまぁお願いに来て、お広前で奥様詩お会いしたちゅうたら、これで安産のおかげが頂けると信じておる。
信心のない人達でも合楽の奥様にお願いすると、もう安産のおかげを頂くげなちゅてお願いに来ることがある。必ずおかげを頂く、家内は7人の子供を持ってます。上二人は難産でしたが、段々信心が分る様になってくると、それこそ隣知らずの安産、こういう心の状態、こういう心になれば安産のおかげを受けれれると、いうなら確信がね。積み上げて、それを人が信ずるようになり。ですから信心さして貰ってね、最近の私しはお道の信心のこの、信ずる力と言う様な事が非常に希薄になっているように思う。
いうならまぁ机上の上に立った神様であったり、教えであったりこれは確かに教えを信じて行ずると言う事は、場合によっては無茶にみえることがあるかも知れませんけれども 信心の稽古をさして頂いて何時どういう事が起るとも限らん。慌ててはならんどういう時でも慌てんで済む一心に神様にお縋りする。稽古をさせて頂いて信の力が育って来る。今日は私透析日でございましたが、午後から悲鳴を上げる程腕が痛みました。そういう時に湿布薬を塗ってもらうと楽になるんです。
今日は痛いなぁと思いました。今日は是をこのまま頂こう。折角神様がし治療させて下さるのだから、わずか2時間余りの事ですから頑張らしてもらおう。思わせて頂いてもう間もなく痛みがスッと取れました。神様にお礼を申させて頂きましたら、それが力になるのぞと頂いたです。だからお互いそれが力になる事柄やら、いうものを御粗末にしていることはないでしょうか。
ここまで神様を信じておかげを頂いて来ておるのに、いよいよの所になって来るとそれを放棄するわけでもないでしょうけれども、木に縋ったり竹に縋ったり、または金に縋ったり、折れたり曲ったり、何時まで経っても神を杖につけば楽じゃと言う境地は開けて来ません。そこからのおかげ、そこからの力はそれはもう人間の知恵力では出来ない働きを受ける事が出来ます。
今度末永先生が、あちらのご信者さんで、あちらで相当材をなされた方が帰国するか、どっか移転するかされる。大変広い屋敷を持って、家も大きな家に住んでおられる。それでそれを教会に買ってくれないかというお相談があった。とても今のビリグイ教会ではもう、もう二度目の教会では勿論借りた家ですけれども、ようやく移ったばかり。いくらおかげを頂いておると言うても、まぁだそういう余裕のある形のことはない。
それがどうでしょう。こちらで2ヶ月こちらで修行さして頂いておる間に、もう驚くばかり購入させて頂くお金より少し余る位に御繰り合わせを頂いております。あちらこちらで、南米布教に使うて下さい。南米布教にお使い下さいと言うてお供えを頂いとる。こちらの金を持って行けばあちらの3倍くらいになるらしいですから、十分にその家屋敷を購入する。今度は場所も大変賑やかな、まぁあちらでいうなら1等地と言う様な所に今度は映る事になるでしょう。そういうおかげを頂いて帰りました。
親先生が言われることを、間違いがない、その間違いがないと言うそれを頂続けて確信となり。それがいよいよの時にそういう働きとなって表れて来るのです。それから先の神様のお働きおかげと言うものは。私共の知恵力やらを分別では到底解らない、私共が様々な事に出合います。はぁここはひとつとても神様にお縋りし貫いて、人やら物やらに頼らんぞ、もう頼らんぞ、神様一途にとこう思わせて頂くとね。不思議にそれを信ずぜにはおれない働きがその周辺に起きて来るです。必ず。
これを見たかと言わんばかりに信じて行けばおかげになる。様々な働きが起る。はぁこういう時にこういう働きをして下さる神様だから。これは今人にでも頼っちゃならん。物んでも頼っちゃならん。それこそドン腹据えて腹が決まると、今日の私の話些細な事でございましたけれども。痛いのが一遍に解消する。しかもそれが力になるのぞと仰る。その力こそが病気の事やら、経済の事やら様々な皆さんがまぁ難儀と思うておる、その難儀の中からおかげを頂いた、そのちからはどういう事にでも仰視出来る。
その力は難儀でも使うことが出来る。私は今日、まぁ信心の妙味というか、有り難さが段々分って来たら、教祖様のご晩年の事葉の中に、信心に身が入って来ると、お試がありますぞと。仰せられとる。信心に出合えて有り難いなぁと思わせて頂くと必ず、そこにはお試が待ち受けています。そのお試をいよいよの時に、頂きぬくことの出来る事のために。日頃こんなにも間違いのない、神様の働きというものを、日々ね、頂き続けて行かなきゃならない。
まぁいうならば、天地のリズムを聞き続け、どんなに難しいときであっても、その事に対するリズムが奏でられますと、リズムに乗って出らん筈の声が出たり、出らん筈の力が涌いて来たり致しますものです。そして力を受け、神様を信ずる力を、そこから神様からまた信じられるおかげ、信じ信じられるそういう中から、初めて、天地金乃神様が教祖金光大神に、神伝えになっておられる様に、本当のあいよかけよの信心、又は、生活が出来ると思います。
毎朝惜しいですよそういうチャンスが、何時もいつもあるものじゃありません。稽古をさして頂いて、そういう時にふらふらと迷うてしまう、それこそ神様は当てにならん、親先生はあんなに言いよんなったけれどおかげ頂ききらん。神様も言われようと思うけれどもと言うて神様がけれどもを付けなさる。惜しい事じゃとそこをいっちょ頑張り抜かんかと。力も与えたいおかげも与えたい。けれども大事なところでお前がしだごだにしてしまうから、結局おかげがしだごだになって。
それこそ自分の力の足りない事は棚に上げて、神様がいかにも当てにならん様に思うたり言うたりする。惜しい。決して小学生に大学で習う様な難しい問題を出しなさる筈はありません。教えに教えてきたことの中からお試と言うものはあるもんです。だからそういう時に私しは、いよいよ力を発揮出来れる信心を日頃鍛えておきたいと思います。もし失敗しますといっとこう後の祭り、信は力なり。これはもう亡くなられましたけれども、津田博士と言うここにもお話に見えて事があります。
全国あちこちらに転勤されると、そこの教会で信心の稽古をなさる。どっか大変北国のひどい所でもう軒下まで雪が積もる。はぁもうどこがどこやら分らない、そういう時でも朝参りをまいる、欠かしたことなかったとこういう。ここは教会だなと思うてこう曲るとそこが教会の門であった。ほう一心に神様に向ってくると、こういうおかげが受けられるもんだなぁという信ずる力をいよいよ、いわゆる信は力なりと言う様な表現をされれる様なおかげを受けられた。
と言う様に私共がね。ほんとに神様のそうした働きを身近ぁに頂き続けておらんと、いよいよのときにね。いかにも人に頼った方が早道の様にある。惜しい惜しい、こんな残念なことはない。昔の人はそういう時ここで一徳受けると言った様な事を申しました。一徳受けると言うのですから、それは信心のない人達から言うたら無茶の様で有りましょうけれども。そこを頂き抜かせて頂いて、くちゃな味わいを味あわせて頂き。
もちろん限りがない事ですけれども、神様を信じて疑わない一生信心生活を、いよいよ身に着けていきたいと思います。一足飛びには出来ません。日常茶飯事の中に様々な事がございます。小さい事はもうよかよかで稽古の材料にしない。大きい事にはもう迷うてしまう。これでは何時まで経っても、先ず手前のいうなら簡単な事の中から、神様をいよいよ解らせて頂き、いよいよ神様を限りないおかげの頂けれる神様として、神様を現し申上げる信心。神様に信じられる氏子。
神様との間にあいよかけよの世界が開けて来る。お道の信心は本当の意味においての、あいよかけよのおかげの頂けれる、世界を目指しておかげを頂きたい。河童は水の中に片足でも漬かっておる時には、大変な力神通力も起こすことが出来るんだそうですね。けれども陸に上がったらもうまるっきり力がなくなってしまう。私共はどんな場合であっても、片足でも良いからその神様の深いご神慮の中に、神様を信じ申し上げる力を養って、限りないおかげの世界を目指させて頂きたいと思う。
あれほど神様神様と言うておったものが、あれを頼り是を頼り、いうならば守られておる水から離れてしまう、まるっきり力を無くしてしまう。私共はいわゆる生きた神様と言う風に申します。というのはそうした生きた神様の働きを、私共のそして生きた心で察知していく事、何時も絶えずそこに神様を感じていく事の出来れる。そしてそこに出て来る答えはもうあなた任せ、右や左や言わん。これだけお縋りしての事だから、これから先はもうあなたにお任せします。
という私しは信心、今日は合楽の一番最高のところのお話しを聞いて頂いた様に思うんです。ただおかげを頂いて有り難いと言う事よりも只今申しました様な信心を身に着けていく事が有り難い。と解らして頂くところまで、いわゆる究極のものを求めて、信心が出けるようになりますと、いよいよ力も養われてくると思うです。神様のおかげの中にあれば、もうそれこそ心は盤石千人力のいわば思いで過ごせる様な神様を頂きたい。
どうぞ。